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幸せとは
○幸せとはなんでしょう
○諸行無常
○この世はリサイクル
○人は霊的存在
○輪廻転生
○似た者どうし
○因果応報ということ
○もう一度、幸せとはなんでしょう
○苦難の克服
○愛に生きる
○奉仕
○人間と動物の違い
○私は世界のために
○地球の悲鳴
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人は誰でもみんな幸せになりたいですね。
でも、なかなか幸せになれない。
「もっと綺麗になりたいのだけど・・・」
そう思って、いろいろやってみるけど、なんだか疲れたわ・・・
「いい会社に就職したい。」
そう思って、がんばって就職したけど、ひどい会社だった・・・
「バックがほしい。」
貯金をみんな降ろして買ったけど、飽きちゃった・・・
「彼氏がほしい。」
彼氏がいれば、きっと幸せのはず・・・でも、いざ彼氏ができると ケンカばかりだし、ちっとも幸せじゃない。
「車、家がほしい、・・・とりあえずお金が欲しい。」
たぶん、車が手に入ったら しばらくはうれしくてドライブしたり、 車を洗ったりして楽しいでしょうが、そのうち飽きちゃうだろうな。 事故にでもあったら、たいへんだわ。
家も・・・欠陥住宅だとサイアクだし、雨漏りがするとか、 庭に草が生えたり、掃除もめんどうくさい。
いろいろ考えたけど、お金さえあれば、何でもできるんじゃない? とりあえず、お金がたくさんあれば 幸せでしょう。 ・・・という結論になりましたが、はたしてお金持ちなら幸せでしょうか?
物を買うのに困らないし、おいしいものを食べられるし、 リッチな旅行ができる、いろんな支払いに困らない、・・・
お金持ちの良いところは、こんなものでしょうか。
でも、物があればいいってものではありません。いらないガラクタが 増えるだけってこともあります。
おいしいものを毎日食べられて、たまらないかもしれませんね。 でも、それでは健康が心配です。糖尿病や高血圧になって、 なにも食べられなくなったら、結局は貧乏と同じですよね。
旅行ばかりして、地球の中をあちこち見て回っても それが何になるのでしょう?今はテレビで世界じゅうを放送する時代です。 旅行は危険が多くて、疲れるだけじゃないですか。
でも、お金さえあれば、先の生活に困らないという、安心感はだいじよね。 という人がいますが、安心感さえあれば幸せでしょうか?
お金があるけれど、老人ホームでボーッとしているお年寄りより、 貧乏でも元気に畑仕事をしているお年寄りや、 孫に囲まれて賑やかなお年寄りの方が、幸せそうですよ。 お金より、健康や生きがいの方が大切なのでしょうか。
それでは、地位とか名誉と呼ばれるものを手に入れると 幸せになれるでしょうか。 政治家や代議士さんは、名誉がありますよね。
でも、ウソつきの代表のようにも思えますし、そんなに立派と 思えません。大会社の社長さんは幸せでしょうか? 会社で失敗があると、いつも困った顔をして謝っていますね。
こうして、一般に幸福と考えられるものを並べてみても、 何だかパッとしませんね。手に入れて、しばらくは満足して 幸せそうに考えられますが、そのうちだんだん、困ったことに なりそうです。サッパリ幸せって、分かりませんね。
小さな時から幸せって、どんなことと教わってきましたか? 学校では、「勉強、勉強」ですね。ゆとり教育とかいっても、 結局はテストの点数で、ゴミみたいに分別されて、高校に行きます。 テストで人の優劣を決めて、高得点をとることが幸せのように 教えられますが、それは人と競争をして勝つことですよね。
でも、県でただ一つ、全国で数えるほどの進学校に行った人いがいは、 みんな負け組みで、ほとんどの人が挫折を味わうのです。
部活動のスポーツをやっていた人は、どうでしたか?
健康な発育のためと言われても、結局は人との競争に勝つことばかりを しいられて、いつも負けていましたね。だって、試合となれば 負けない人は県内でただ一人、二位以下はすべて負け組みですから。
そんな競争を勝ち抜くことを教えられて育ちますので、 社会に出ても、競争で勝てば幸せなのではないかと思ってしまいます。
お金を獲得する競争ですね。これは、ほとんどの人が一生かけて 戦っていますが、ようやくお給料を手に入れても、 どんどん出ていってしまいます。
あとは、彼氏をつくる競争や、おしゃれの競争にがんばりますが、 「やっと手に入れて、しあわせだわ〜♪」
と思ったのもつかの間、しばらくすると むなしくなるのです。 「あれ・・・、へんだわ」と、この頃思っていませんか?
そうなんです。学校で教わる幸せや、大人に教えてもらった幸せは、 どこかヘンなんです。
そういうことを、今から2500年ほど前にインドにいた「おしゃかさま」と いう方が、すでに指摘しています。
○諸行無常
どうして人は、幸せになれないのでしょう。
どうして人は、苦しむのでしょう。
「それは、諸行無常だからだよ。」
と、おしゃかさまは説きました。
すべてのものは、移りゆき 変化するもの。
それが、諸行無常という言葉の 意味することです。
赤ちゃんは子供になり、子供は大人になり、大人はやがて老人になります。 誰も、この変化に逆らえる人はいません。
若くて美しい女性は、いつかは お腹がポッコリのオバサンになります。 優しかった彼は、いざ結婚すれば マザコンだったり浮気性だったり、 「こんなはずではなかったのに・・・」と後悔しても、人の心は変るもの。
これらはすべて、諸行無常です。
「お金よ、お金さえあれば 人は幸せになれるのよ。」
と言っている人も いざお金が入ると、パーッと使って、あっという間に 一文なしになって、諸行無常を感じたり、お金が出て行くことに 恐怖を感じて、毎日が不安でいっぱいになったり、これも幸せには 程遠いですね。
この世で変わらないものはありません。
石や岩は、永年の風雪で砕けたり削られて形を変えます。 どっしりして見える山も、永い間に崩落しているのです。 この地球さえ、温暖化やオゾン層の破壊などで、その環境を変えています。 どんな物も、時間とともに刻々と変化している。
だから、目的とする幸せを手に入れて、一時的に幸せになっても、 いつかその幸せは消え行くものなのです。
幸せとは幻のようなものですね。
じゃあ、幸せって この世にはないのでしょうか?
すべての幸せが 幻なのでしょうか?
いえいえ、そんなことはありませんよ。
ちゃんとほんとうの幸せはあります。
物やお金、若さや美貌、健康や異性に幸せを求めている限り、 それは夢のようにはかない幻のようなものですよ、 これまでのような幸せの考えでは、ぜったい幸せにはなれないことを 知っていただきたいのです。
これから、ほんとうの幸せを探すお話しに入っていきたいと思います。
まず、この世界、この世という世界が、どうやって成り立っているのか、 この世界はどうしてできたのか、ということを話します。
私たち日本人は、神道や仏教を通じて、こういうことを 深く深く考えてきた民族です。
学校などでほとんど教えられませんが、 ちゃんと知っておきましょう。
次に、人はどうして生まれてきたのか、なぜ死ぬのかという 「輪廻転生」のお話しです。
そして、人の構造というか、目に見える肉体や 目に見えない心、 さらに霊魂や幽体という構造もあるのですよ。
人によって、運の良い人や 逆に運の悪い人がいますね、 そんな人の運命についての「波長の法則」というお話し。
「因果応報」というお話しも、運命についてのお話しです。
この世界を知ること、世界の流れを知ること、自分の存在を知ることを 通じて、ほんとうの幸せということが見えてくるのです。
○この世はリサイクル
キリスト教やイスラム教という宗教では、この世は神様が造られた世界と いうことになっています。だから神様は一番偉いのです。 その次に偉いのは、人間です。神様は人間を造られて、自然の頂点に立ち 自然を支配しなさいと命じました。
それに比べて日本人の世界観は、 あらゆるものは、神様ご自身が細かく分かれて、 石や木や草や 動物や人間になったと 考えられました。
だから、自然も人間も みな平等なのです。人間だけが偉いとは 考えていませんでした。
でも、今はどうでしょう?
そんなことを考える日本人は、ほとんどいません。 公害や環境汚染、環境破壊を行うのは、自然を人と平等に尊ぶ精神の 無くなったことを証明していて、とても残念なことなのです。 それで、昔々からの日本人の考え方を、もう一度見直して いただきたいのです。
この世界が、神様そのものとしたら、自然も人も大切にしなければ いけませんね。もちろん自分もです。
私たちは、神様から生まれて、この世で精一杯に頑張って生きて、 死んでしまうと、また神様の世界に戻るのです。そして、やがてまた この世界に生まれ変わるのを待っています。そんな生命のリサイクルの 一つであり、一部なのです。
○人は霊的存在
人も自然も神様の一部としたら、私たちは、ほんとうに神様なのでしょうか。
それなら、どこが神様なのでしょう。どこにも神様らしきものは 見当たりませんが…。
そうですね、身体のどこを探しても、神様は見えません。 なぜなら、神様は見えないことになっているのですよ。
神様は、人の心のずっと奥に、静かにたたずんでおいでます。 それは近くて遠い所で、誰もそこまでたどり着ける人はいないのです。
そんな目には見えないけれど、神様の部分を、魂(たましい)とか 霊(れい)と呼びます。ほんとうは、もう少し細かく分類されるのですが、 ここでは、あまりこだわらずに、目には見えないけれど、 神様の一部のことを「霊」「霊性」としましょう。
人間は、目に見える肉体の部分と、霊によって成り立っていることを 知ってください。
また、人間の心の中に限らず、動物にも霊の部分はあります。
植物にもあるし、山や川、石や岩にも霊が宿り、 昔の日本では、こんな多くの霊のことを「八百万の神々」と呼んで、 敬ってきました。自然をとても大切にしてきたのですよ。
ほかには、浮かんでいる霊や、漂っている霊も少なくありません。 あまり良くない霊というのもありまして、 そんな良くない霊から 私たちを守ってくださる「守護霊」 という立派な霊もおいでます。
亡くなって、神様の世界に行かれた方々も、この世界が気になって よくおいでになります。そんな神様にも近い、高級な霊など 無数の霊に囲まれて、私たちの生活はあるのです。
○輪廻転生
ふつうに生きている限り、まったく分からなくて自覚のない「霊性」 ですが、それがはっきり分かって「ああ、私は霊なんだなー」と 思う時があります。それは、人が死んだ時です。
肉体が亡くなりますと、この霊の部分が ぼーっと肉体の外に出ます。 そして、悲しんでいる家族などを見ては、自分の死を実感するのですが、 この時になって、ようやく人は肉体だけでなく、霊的な存在で あったことを自覚するのです。
人はこの世を生きた後、死ぬと肉体は滅びますが、 霊性の部分はもともとが神様ですから、神様の世界へと帰るのですね。 こうして、亡くなった人の霊は 天国へと向かいます。
天国に到着しますと、それまでに亡くなっていた、父や母や、 おじいちゃん、おばあちゃんなど知り合いが出迎えてくれまして、
「おかえりー」とか「ごくろうさん」と言われるのです。
楽しいご対面となります。
その後は、「下界はどうだった?」とか聞かれて、
「頑張って生きてきました。」とか「楽しかったよ」
なんて、この世で生きてきたことを振りかえり、反省したりします。
そして、ずっと神様の世界にいますと、いろいろなことが思い出されて、 あの時はこうすれば良かったとか、もっとこんな生き方がしたいとか、 もっといろんな体験をしたいと思うようになります。
そして、神様に「もう一度、下界に行かせてください」と、 お願いするのです。
こうして、人間はまた赤ちゃんになって、この世に生まれてきます。 人間に限らず、動物も同じです。草や木も、石も水も、星たちも 生まれては死に、神様の世界に行き、また生まれることを繰り返します。 このことを「輪廻転生(りんねてんしょう・りんねてんせい)」と、 呼びます。
○似た者どうし
霊性というのは、いろんなレベルがあります。
尊くて美しい心の霊もあれば、悪いことばかりしている悪い霊も あります。神様の世界に行きますと、亡くなった家族に会えますね。 でも、その世界というのは、この世で行ったことが すべて分かってしまう 世界なのです。そして、人の考えていることも分かってしまって、 ウソがつけない世界です。
もし、善い人ばかりの家族の中に、悪い人が一人いますと、 悪いことをしてきたことや、悪いことを考えていることが、 ぜんぶ分かってしまいます。そうなりますと、その人は もう恥ずかしくて 家族の中にいられなくなるのです。
そして、似たような人たちのいる所へ行きます。
悪い人ばかりの集まっている世界ですね。自分と同じような人が 集まっている方が、その人にとっては住みやすいのです。
こうして神様の世界というのは、悪い人は悪い人ばかりが集まって、 暴力や裏切り、怒りや恨みだらけの地獄のような世界を作っています。 一方、善人は善人の世界を作り、優しさや思いやりのあふれる、 それこそ輝く極楽浄土となっているのです。
俗説には、人が亡くなると、神様や閻魔大王に裁かれて 天国か地獄に振り分けられると申しますが、それでは地獄へ行った人から 抗議が殺到するでしょう。神様の世界は完全な世界なので、 みずからの意思で、天国と地獄へと住み分けるのです。
そういう霊のレベルによって住み分ける性質は、 この世界に来てからも続いています。
悪い霊性の人は、どんなに着飾ったり、善人ぶっても 周囲には 悪い霊が集まります。運が悪かったり、周囲に暴力や怒りが絶えず、 裏切りや詐欺や、事件や病気が多いのです。
善い霊性の人には、善い霊が集まりますから、 貧しくても明るい家庭だったり、いつも元気だったり、 楽しい雰囲気に包まれています。
似た者どうしは集まりやすいのです。
ここまで来ますと、幸せについての本質が ちょっと見えてきましたね。
人間は、肉体と霊から成っていますが、どうも霊性を良い方向に 持って行くことで、なんだか幸せそうになりそうな気がしてきました。
○因果応報ということ
神様の世界では、この世で行ってきたことが すべて分かってしまうと 書きましたね。
誰も見ていないところで、ひっそりと行った悪いこと、 その時は、「ま、誰も見ていないから良かった。」と、安心していたかも しれませんが、すべてお見通しなのです。
それどころか、心の中で考えた悪いことまで分かってしまうのです。 怒りや嫉妬や、妬み、恨み、・・・人間というのは、次から次へと 悪いことを考えるもので、誰もが天国では赤面します。
また、子供のために朝早くに起きて、せっせとお弁当を作ったんだけど、 誰も「ありがとう」と言ってくれない、ちょっと寂しいな。と、思って いたことも、そんな善い行いは 神様の世界でしっかり認めてもらえます。 誰にも認めてもらえない善行、感謝されなくても黙々と行ってきた 善いことというのは、もっとも尊いことなのですよ。
そんな 悪いことと善いことを計算して、プラスとマイナスが ちょうど釣り合うようにするのが、「因果応報」と呼ばれるシステムです。
原因(因)があると、それに従った結果(果)が生ずるという意味の 言葉です。つまり、悪いことをした人には、その後悪いことが起こり、 ひどい目にあいます。逆に、善いことをした人には、善いことが起こり、 幸せになります。そんな原因と結果が、きちんと釣り合うように 世界の出来事は、ちゃんとできているのです。 それは、ぜったいに間違うことのない、神のシステムです。
「因果応報」がないと、世界の完全性がなくなってしまいますね。 悪いことをした人は、悪いことのやり得となり、被害にあった善人は 泣き寝入りすることになります。神様の世界は、こんな悪人の味方を するような、不完全な世界ではありません。
もし、あなたが今、幸せだなぁと感じているなら、 それはあなたのこれまで行ってきた、善い行いの現われです。
もし、今、不幸でつらいわ…と、感じているなら、 それはあなたの これまでの悪行が 因果応報により現れているのです。
そして、もしあなたが「私はもう幸福にはなれないわ、悪いことばかり してきたから…」そう思っても、あきらめてはいけません。
これから 善いことをどんどん行えば、これまでの悪いことが、 しだいに消されていき、やがては逆転して 必ず善いことが起こり、 幸せへと 歩むことができるのです。
ここまで来ますと、かなり幸せの条件が 見えてきましたね。
○もう一度、幸せとはなんでしょう
人は学生の時、勉強すれば幸せになれると教えられ、頑張ってみますが、 トップクラスになれる人は、ほんのわずかで、 あとは 落ちこぼれの悲しみにあいます。
そのわずかの 進学校に行った人たちも、受験競争で苦しいだけで、 とても幸せとは思えません。高校、大学を出て、 就職すれば幸せかというと、 いざ就職すれば 厳しくて、通勤と仕事に追われる毎日です。
病気になれば、この病気が治れば 幸せになれると信じても、 いざ健康になれば、そんな幸せも忘れて 働かなければなりません。 結婚すれば幸せかと 思っていても、いざ結婚すれば 次から次へと問題が出てきて、いったいどこまで行けば 幸せに なれるのかと、だんだん人生に絶望してきます。
それどころか、次から次へと起こる問題も複雑化して、 それこそ 必死で苦しんでいるのに、ちっとも救われない、 神様なんて信じられないと お嘆きでしょう。
それは、これまで書いてきたことを 知らなかったからです。
人が、外に幸せを求めている限り、手に入れた一時は幸せを感じても、 その幸せは、夢のように消え去ってしまうのです。
幸せとは 外にあるのでなく、自分の内側にあることを知ってください。
そして人間は、肉体と霊性のふたつが合わさった存在であることを 知りました。私たちが幸せを追い求めるのは、このうち肉体にかかわる ものばかりです。
美しくなりたいと、お化粧したり ダイエットをしたり、 洋服を買ったり、バックや靴、アクセサリーを買ったり、 おいしい物を食べたいと思ったり、彼氏がほしい、結婚したい、 お金が欲しい、家が欲しい、・・・
すべて 肉体のための 幸せの道具です。
これらの物もまた、手に入れた一時だけ幸せを感じる 幻のアイテムに すぎません。
ほんとうの幸せを得たいなら、肉体のための幸せを 求めるのでなく、 霊の幸せ、心の幸せを 求めることが大切なのです。
「霊の幸せ」とは、はじめての言葉ですね。霊が幸せになるなんて、 どういうことなんでしょうね。
私たちが天国に行って、またこの世に戻ってくるには、 何か理由がありましたね。「あれがしたい、これもしたい」 そう思って この世に生まれてきたはずです。それが霊性としての願いです。 その願いを、もう一度考えてみましょう。
この世で私たちは、いろんな失敗や間違いをおかします。悪いことも してしまいます。そんなことを天国で反省して、「今度こそはしっかり 生きたい」、「もっと善いことをたくさん行いたい」と願って、 この世に生まれ出てきたのです。
そんな輪廻転生を、何度も何度も行って、 人の霊性は 成長しているのです。永い年月をかけて、 何十回、何百回という輪廻転生で、人の霊性は より善い霊性に なるために この世に生まれ来て 苦しみに耐えて、 がんばっているのです。
私たちの、ほんとうの幸せ、根源的な幸せとは、
「善き霊性」になることです。
美しく、清らかで、愛に満ちた霊性になることが、幸せの結論です。 この世に「おぎゃーっ!」と生まれてきた、 その本当の目的どおりに生きるのなら、 これ以上の幸せはありません。
こう書きますとね、「なにそれ、がっかり!」という声が 聞こえそうです。
「いくら霊が清らかでも、やっぱり顔は綺麗な方がいいし、 身体はスマートな方がいいわ。お金がなくては、どうして生きていくの? 家のローンはどうするの?子供の教育費はどうするの? 霊性が善くても、食べていけないじゃない。」
と、反論されそうですね。ふつう、これが常識です。
でも、これで、いいのですよ。
私たちの生まれてきた理由は、霊性の善きものへの成長。 これだけです。このために生まれてきたのですが、しだいに忘れて 横道にそれてしまったのです。ほんとうの目的を、今思い出しました。 でも、それで現実の社会で暮らしていけるのでしょうか。
霊性が成長しますと、内側から輝きます。光のオーラが発せられるのです。 清らかな霊性ほど、その輝きは強くて、美しい雰囲気をかもちだし、 周囲を魅了します。お化粧やジュエリーで飾り立てても、内面から輝いて いる人には、ぜったいかないません。その輝きにより、悪い霊は近寄れ なくなり、善い霊を引き寄せ、善いことばかりが起きます。
似た者どうしは集まるという法則です。
もし、貧乏な環境であっても、お金が必要な時は 自然とお金が 入りますので、心は安定しています。それが神様が造られた世界の、 完全さなのです。
善い霊性には、神様の保証付きです。これ以上の安心感はありません。 真実の幸福とは、神様から祝福された 不変のものでなければなりません。
それでは、善い霊性として成長するための、もう少し具体的な方法を 考えてみましょう。
○苦難の克服
この世には、不平等と理不尽が満ちています。
善い人が急に事故で亡くなったり、なにも悪いことをしていないのに 台風や地震で家を失うとか、罪もない人が戦争で被害を受けたり、 どうして?と、神様の存在を疑うようなことが起こります。
お釈迦様は、人間には「生老病死」という根源的で避けられない苦しみが 存在すると説かれました。 さて、そんな苦難に対して、私たちは どう向い合えばよいのでしょうか。
因果の法則によれば、何らかの苦難は 私たちが過去に行った 悪行に対する結果であると考えられます。そのため苦難を受けるのは、 過去の悪い因果を清めるためには、どうしても必要なことなのです。 もしも、この苦難から逃げたり、人に押し付けたりすると、 次にはもっと大きな苦難が現われるでしょう。
今、起こった苦難には、しっかりと立ち向かうのが良いでしょう。
ゴミ箱が いっぱいになっているという 困った事態に対して、 見ないふりをして 逃げていませんか?
お母さんに捨ててもらおうと、人に押し付けていませんか?
大きな物を乗せて 隠していませんか?
「このゴミ箱が悪いのよ!」と ヒステリーを起こして、ゴミ箱に やつ当たりをしていませんか?
どの方法もいけませんね、いっぱいのゴミ箱は、自分でちゃんと 捨てなければなりません。捨てた時に過去の因果が 一つ浄化され、 あなたの霊性は、ほんの少し成長するのです。
そして、根本的なこととして、私たちが この世に生まれてきた理由が、 「霊性の成長」であることを、思い出してください。
肉体は十代の後半で成長をストップしますが、 心や霊性は、一生を通じて いつでも成長します。それは苦難という トレーニングによって、鍛えられ、経験を積み、学習して成長するのです。 肉体の成長が終わって、さらに素晴らしい肉体となるためには、 重いウエイトトレーニングをすれば、隆々たる筋肉に成長します。 同じように、心や霊性は、苦しみや悲しみを経験してこそ、 大きく豊かに成長するのです。
まさに苦難とは、霊性の成長や進化のための 試練にほかなりません。
ある高校生のA子さんのお話しを、例え話として聞いてください。
彼女は同じクラスに、すごく嫌いなB子さんがいました。もう、その子が 近づくだけで、おぞましくなるのです。これという理由もなくて、 ただ波長が合わないというか、とにかく彼女のことではイライラするの でした。ほかの生徒もA子さんの態度を見て、B子さんには近づかず、 いわゆるクラスぐるみの いじめになっていました。
そして、もう一つの問題は、朝の通学の電車の中での痴漢でした。 ほんとうにひどい目にあって、辛い毎日でした。
「もお、死にたいわ。」が、A子さんの口グセで、友達も同情的です。
そんなある日、彼女にとんだ不幸が降り注ぎました。
まず、それまで優しくて 彼女にとって、良き理解者で話し相手だった 母親が、突然いなくなりました。「好きな彼氏と暮らします」という 一通の手紙だけを残して。
ぼう然としているA子さんの目の前で、お父さんが倒れました。
脳いっ血でした。彼女はぼう然となっている暇もなく、救急車を呼び、 その後は、病院に運ばれた父親の 看病が始まりました。
あまりに大きなショックで、何度も泣いたし、運命や母を恨みました。 でも、そんな悲しんでいる暇もなく、 二人の弟の世話と、重症の父親の看病のために、体を動かすしかないのです。 学校にも行けなくなり、二週間が過ぎ、疲労困ぱいしていた時に、 母親がひょっこり帰ってきました。A子さんは、自分たちを捨てた母親を 恨んでいましたが、いざ出会うと、もう、ただ泣くばかりでした。
パトリシア·アンダーウッドトップハット家事と父親の看病を、母に代わってもらい、彼女は二週間ぶりに 学校に行こうとすると、通学の電車の中で また痴漢にあいました。
それまで 泣き寝入りしていた彼女ですが、痴漢の手を握りかえして、 「やめてください!」と、自分でも驚くほどの 大声を上げたのです。
周囲の男性たちが、その痴漢を取り押さえてくれて、 警察に突き出してくれました。
そして学校に着くと、あれほどイヤだったB子さんを見ても、 何も感じなくなっていました。自分でも、とても不思議でした。
「これまで、なんであんなに嫌っていたんだろう?・・・」
A子さんは、一日中楽しい気分で学校生活を終えました。
「また学校に来れるようになって、ほんとうによかった。」
と思いました。 そして、一人で帰るB子さんに歩み寄って、
「いっしょに帰ろう。」
と言いました。B子さんは、それまでA子さんが恐くてしかたなかったけど、 その日から、ぜんぜん恐くなくなり、とても仲のよい二人になりました。
このことから A子さんは、母の家出と父の病気という苦難を 乗り越えることによって、霊性がアップしたと思われます。
痴漢を撃退する勇気を得て、訳もなくB子さんを嫌うという わがままも無くなり、誰でも愛せる 豊かで大きな霊性を得たのです。 B子さんも、その変化を敏感に感じ取ったのでしょう。
神様の与える試練が、人を成長させるという 典型的な例と言えますね。
このような大きくて苦しい苦難にあいますと、立ち向かうには恐くて、 逃げ出したくなったり、絶望に陥りるものです。 そのような時でも、人は立ち向かわなければならないのです。 逃げてはいけません。
「人は神の子」であることを信じて、苦難と向きあった時、 ぜったい神の救いがあるのですよ。
なぜなら、この世は神様が造られた世界で、 苦難もまた神の造られたものだからです。
「天は、自ら助けるものを助ける」という言葉がありますが、 みずから「やろう」と決めたものには、神の愛の救いがあるのですよ。
私たちのまわりには、無数の救いの手が満ちていて、 ただ、それを信じて行動した者が 恩恵を受けるのです。
○愛に生きる
人は裸で生まれ、死んだ時もまた 裸で死んでいくと言われます。
どんなお金持ちも、お金を天国にもって行けません。 立派な豪邸を建てても、天国へ行く時は、身一つで行かなければ ならないのです。大統領も、死んだらただの人です。
そんな天国行きですが、一つだけ持って行ける物があります。 それは、「愛」です。
この世で、どれだけたくさん人を愛したか、その愛の量を持って 天国へ行くと言われています。
たくさんの愛のある人の霊性は、美しく輝き成長し、さぞ天国では よい世界へ行けるでしょう。
でも、普通に考える「愛」と、ちょっと違うかもしれませんので、 ご注意願います。
「私は彼を、ものすごく愛しています。世界の誰よりも、死ぬほど 愛しています。…ところで、天国へ行けますか。」
と、質問されても「まあまあ」と、お答えしましょう。
胸を焦がす大恋愛というのは、女性にとって一大事で、 人生の最大の愛と思ってしまいますが、神様を基準とした愛のレベルから しますと、低いレベルの愛と申せましょう。
愛のレベルは三段階あります。
1、異性や肉親への愛(彼氏、親や子供への愛、優しい人への愛)
2、知らない人への愛。(1より高級な愛)
3、敵を愛すること。(一番高級な愛、一番むずかしい)
1のレベルは、普通の愛ですね。レベルは低いと言いましても、 愛してはいけないという訳でなく、どんどん愛しましょう。
2のレベルは、見知らぬ人へ親切にしたり、道端で倒れている人を 介抱したり、無関係なすべての人に平等に愛することで、 とても難しいですね。また、世界平和を祈る心にも、この愛はあります。
3となりますと、キリスト様やお釈迦様、ガンジー、マザー・テレサ様の ような聖者の愛です。自分を攻撃してくる敵でさえ愛するという、 大きく深い人類愛がなければできないことですね。でも私たちに まったくできないかと言うと、そうでもございません。 やる気さえ出せば、けっこうできるものなのですよ。
イエス・キリスト様は「汝の敵を愛せ」と申されました。
あなたの一番きらいな人、あなたを一番苦しめている人、 そんな人を「愛しなさい」と言うのですよ。
正気ですか?…と言いたいでしょう。
もし、愛することができたら、あなたの霊性は浄化され、 とても清らかになります。神様のように神々しい霊性となるでしょう。 でも、どうしたら愛することができるでしょう。
それには、私たちの中に、神様の分身である「霊」が存在しているように、 一番きらいな人にも神様がおいでるのです。そのことを考えて、 信じることができれば、かなり行けますよ。
その人に対して、べつに「愛しています」と告白する必要もないので、 あなたが一人になった時に、「あの人の、内なる神様を尊敬し、愛します。」 と祈りましょう。それならできるでしょう。祈るだけです。
さらに、きっとその人は、多くの欠点があると思いますが、 たった一つで良いですから、何か長所を見つけましょう。
何でも良いです。
「あの人の、大きな元気のある声を愛します。」
と、一つだけの長所を愛するように祈りましょう。
あなたの人に対する見方が変れば、相手も変ります。
相手を鬼と見れば、鬼になり、相手を神と見れば、神になるのです。 少しずつ相手への見方が変わってきて、少しは好感が持てたら、 これまで鬼のように思って、恨んだり怒ったりしたことを謝りましょう。 謝罪の祈りも大切なことですよ。
人生は、何も恐れるものはありません。まず、あなたが物事をはじめる 決断をして、やる気を出せば、そこからすべての道が開けるのです。 お金も地位もいりません。敵さえ愛することができます。
あなたが決断するだけで、幸福への道が開けるのですよ。
○奉仕
愛について書いてきましたが、日常生活で愛の精神を実行するとしたら、 それは「奉仕」になります。愛の心をもって、他者が幸せになるように することですね。奉仕は、人間の生きる至上の道です。
奉仕には、次の三つがあります。
一つめ、行為による奉仕。
労働や親切な行為ですね。お年寄りに席を譲ったり、 ボランティア活動をすることです。お金を寄付することもこれに入ります。
二つめ、言葉による奉仕。
人を生かすも殺すも言葉しだい、と申します。それほど言葉には力が あるのです。同じことを言うなら、相手を喜ばす言葉を使うこと。 相手に明るくなってもらい、生き生きとなるような言葉を使えるように なりたいものです。
三つめ、心による奉仕。
他者の幸せを願う心、愛に満ちた心です。
世界の平和を祈り、人々の平安を祈りましょう。
無力で無駄のようですが、とても大切なことです。
奉仕と聞くと、なにか災害時のボランティアに出かけたり、 多額の寄付をしたり、特別なことのように考えるかもしれませんが、 そんなことはありません。むしろ、ふだんの生活の中のこころがけの方が 大切な奉仕となります。
今いる あなたの場所で、あなたができる範囲で、あなたの言葉で 他の人への奉仕が、何かできるはずです。
今の職業、環境、まわりの人々、とりまく物の中で行えば良いのです。 10分後には、その時、その場所で、 1時間後には、その時、その場所で、何か奉仕ができないかと考えましょう。
奉仕の対象は、困っている人に対する救いだけではありません。
ペットにエサをやれば、ペットへの奉仕。
花瓶の水を交換すれば、生け花への奉仕。
散らかっている部屋を掃除すれば、空間への奉仕。
道路に落ちているゴミを拾ってゴミ箱へ捨てれば、 周囲の人々や地球への奉仕になります。
こう書きますと、なんだか当たり前のことを しているだけのように 思えるかもしれませんね。そうなんです。奉仕というのは、 当たり前のことを、相手に対して心をこめて、 愛情を込めて行うことなのです。
あなたが看護師さんなら、患者さんに対して 心をこめて看護なさってください。
あなたが農家なら、野菜やお米に対して、心をこめて作って それを食べる消費者に、心をこめて出荷なさってください。
あなたがカメラマンなら、被写体に対して心をこめて写し、 写真を見てくれる方々に心をこめて現像してください。
あなたが学生で、教室で勉強中なら、先生に心をこめて、 そして送り出してくれたご両親に心をこめて 勉強なさってください。
あなたが今いる場所で、いましていることを 他者のために 心をこめて行うことが 立派な奉仕になるですよ。
○人間と動物の違い
人(ヒト)とは、動物としてのヒトのことです。
動物である以上、動物としての本能があります。 自分の命を守る、「自己保存」の本能と、子孫を残そうとする 「種族保存」の本能です。これはサルもネコも、鳥も魚も同じです。
では、人間となりますと、動物としての人でなく、 社会生活をする上での「人間」という存在になります。
動物の中にも、シマウマやサルの群れのように、またイワシの群れとか、 集団になる動物もいますが、人間のように分業して社会を構成する動物は 人間以外にいません。集団になる動物は、群れていた方が敵から 攻撃されにくいから群れになっているだけで、一匹の固体を見れば それ自体で完成しているのです。
一方人間の方は、花屋とかうどん屋をしているとか、車のセールスとか、 学生とか、何か役割をになって社会に貢献している訳で、 ほかの動物とは、あきらかに違います。
この、動物と人間とを隔てる要素として、人間には第三の本能が あるようです。その本能とは、
「人は、喜ばれると うれしくなる」
という本能です。
「人は喜ばれるとうれしい」という心があることを、 「それは違うだろ」とか「納得できない」という人はいないでしょう。 誰もが 納得できることですね。
こんな喜びがなければ、誰が親切をするでしょうか。 誰が廊下に落ちているゴミを拾うでしょうか。
すべては、喜ばれることがうれしいから、人に親切にするのですね。
人間が、ほんとうに「うれしい」と、心の底からよろこべるのは、 この、人に喜ばれた時が一番「うれしい」のです。
奉仕をして、人の喜ぶ姿を見て、あるいは綺麗になった廊下を見て、 ニッコリできるのは、人間の心の根源からの喜びなのです。
もしも、世界じゅうの人々が、この人間本来の持つ本能に目覚め、 奉仕の精神で生きたら、この世界はどうなると思いますか?
まず、あらゆる職業や産業が 大きく発展するでしょう。
国と国の不信感がなくなり、軍隊が必要なくなります。
これは、とても重大なことで、世界の軍事予算が必要なくなると、 その分を食糧援助や医療援助、環境問題への予算と回せますので、 そうなると飢えて亡くなる人や、伝染病で亡くなる人がいなくなります。 まるで地上の天国のような世界になるのですよ。
そんな人の争いのない世界、不幸なことのとても少ない世界というのは、 人間の霊性にとって、すばらしく良い環境です。
きっと、霊性の成長も一段と進むでしょう。人間すべてが輝かしい 霊性を持ち、愛にあふれた世界は、いっきに輝く世界へと進化する ことでしょう。
まるで夢のような話しと思わないでください。 もしも、あなたがこの話しを 10人の人に広め、その人たちがまた 10人の人たちに広めたとしたら、そんな繰り返しが十回あれば、 なんと百億人の人たちに広がってしまうのです。これは、地球の人口の 二倍です。たった十回ですよ。
しかも今はインターネットで、情報がすぐ世界じゅうに広がる時代です。 コンピューターウイルスが、あっという間に広がるように、 奉仕の精神が広がれば、あっという間に地球は 光輝く天国に なるかもしれません。その先がけが、あなたかもしれませんよ。
○私は世界のために
ここまで読んで、いかがですか?
「そんなこと、できないわ」という声が聞こえそうです。 少しはできても、ずっと持続することは難しそうですね。
「敵を愛する」が一番難関で、「奉仕」も、ついつい怠けてしまうし、 「苦難に立ち向かう」のも面倒というか、つい人に押し付けてしまう…。 小さな時から、人と競争し、勝つことを教えられてきて、 今さら敵をどうして愛せるのでしょう。
人一倍儲けて、お金をたくさん得ることが目標だったのに、 人に奉仕して何になるのでしょう。
苦難のような面倒なことは、「代われるものなら人に任せたり、 人に押し付ければ、楽じゃない、それがほんとうの幸せで、 世渡り上手というものじゃないの。」
と思う人もいるでしょう。
これまで頑張ってきた、そこそこの学校を出て、まあまあの企業で コツコツ働いてきた。貯金もある。車もあるし、トラブルは多いけど 彼氏もいる。デートは楽しい。私は今のままで、じゅうぶん幸せよ。 という人もいるでしょう。
そんな人は、今、地球上に5億5000万人の人々が常に飢えていて、 餓死の危機にさらされていることを、ご存知でしょうか?
お腹が減ってペコペコなのに、何も食べるものがないのです。
私たちが「自分だけ幸せなら、それでいい。」という便利な生活の陰で、 毎日2万5千人もの人たちが、お腹をすかせながら死んでいることを、 どう考えれば良いのでしょう。
そろそろ私たちは「自分さえよければいい」という考えを、 見直す時期に来ているのです。
何も不自由はないのに、何か満たされないのは なぜ?
どうして次々と問題が起こるの?
と思って、このページを読み進んできたあなたに、 もう答えは出ているはずです。
「この世界は、自分を幸せにしてくれる世界」という幻想を捨て、 「私は、世界の幸せのために在る」と、逆転の発想をした時、 神様はあなたに味方するのです。
これまで私たちは、自己中心の幸福感しか教えられずに、 競争原理に追い立てられてきました。それでは、いつまでたっても 幸福になれず、社会も混迷を深め、破滅の道を歩んでいます。
今、地球は とても悲惨な情況にあるのです。
自己中心、それも肉体中心の幸福の発想をやめて、 他者中心の幸福感への転換と、みずからの霊性の進化というよろこびを 幸福の中心に置くべきなのです。
人々がそうなれば、この社会や自然や地球全体が、ほんとうの幸福に 包まれるでしょう。
○地球の悲鳴
日本人の豊かさの陰で、多くの人々が苦しみ、動物や植物が被害にあって いることを、真剣に考えましょう。
世界には、920万人の難民が 祖国を追われて流浪の民となっています。 2000万人の国内避難民の方々が、安全を保障されないキャンプ生活を しています。
世界では、毎年少なくとも60〜80万人もの人々が 国外へ人身売買されていて、 その半数以上が 性的搾取の被害者になっています。
日本においても、アジア各国、南米、東欧から 女性たちが人身売買のブローカーによって日本に連れてこられ、 性産業などに送り込まれています。
地球上には、およそ100万種と言われるいろいろな動物が 生息していますが、多くの種が地球上から姿を消しつつあります。
世界全体で動植物では1万6000種以上もが、 絶滅危惧種に指定されています。
ここ50年あまり、人間が便利で豊かな生活を追いもとめた結果、 さまざまな環境問題が世界中で深刻になっています。
とくに人間がばらまいた有害物質は、 生命をささえる水や土や大気を汚し、 さらに生き物の内部にたくわえられて、 生態系全体に大きな影響をあたえつつあります。
有害物質には、放射性物質や人工化学物質、それに重金属などがあります。
そして、この日本においては、2万5千人の人かホームレスとなって、 路上生活をしています。
これらは、地球が悲鳴を上げている、ほんのわずかの数字にすぎません。
日本人が、豊かに暮らす陰で、その犠牲になっている人々や 動植物が無数に存在しているのです。
もう、しらんぷりするのは やめましょう。
地球や自然に、優しさを向けてあげましょう。
困っている人々に、思いやりをもち、そして真面目に考えて あげましょう。
決して大げさなことを考えるとか、難しいことを行う必要はありません。 「私に何ができるかな?」
と考えること。まずはそこから 貴重な一歩がはじまります。
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